それは錯覚?藪の中?

カウンセラーの内藤です。
冬の晴れた日。
冷たく澄んだ空気を通してみる太陽や月・星はひときわ鮮やかに見えます。
ところで、出てくる時と沈む前の太陽や月は、日中、頭上にある時よりも大きく見えませんか。
私はその雄大さに「お!」と思って写メしたものの、後で見て、「え?こんなに小さい…」とがっかりしたことが何度かあります。
太陽も月も、実際の大きさは変わらないのですから当然です。
そんな風に目は錯覚を起こします。

右の矢印は、そうした目の錯覚による「錯視」の典型的な例で、ミュラー・リヤー錯視です。

中心にある線の長さは全く同じです。
でも、上の線が下の線より短く、下の線は長く見えませんか。
錯視は見た目の錯覚ですが、言語を介したやりとりでも、本当のところが中々わからないことがあります。

例えば芥川龍之介の作品『藪の中』では、ひとつの出来事について語る関係者の話は、それぞれ様々に食い違います。
この作品から、そうした状況を差して「(真相は)藪の中」と表現されるようになりました。
誰がどこから何をどう見ていたかで見え方、認識、記憶が変わるという側面は当然あります。
人によって記憶があいまいな部分も勿論あるでしょう。

さらに、もし、話すと不都合な部分があったり、進んで語りたい何かがある時は、話が大分違ってきても不思議ではありません。
また、無意識に見たいものを見、見たくないものは見なかったことするなどで、認知バイアスがはたらいている可能性があります。
都合の良い情報にばかり注意が行き、不都合な情報を無視したり、なかったことにし、自分の思い込みを強化する情報だけを選択している時には、さもエビデンスが沢山あるように感じたり人に伝えたとしても、事実を捉えられているかは「?」です。

さて、口直しになぞなぞを、ひとつ。
「それは、ある方向から見ると丸です。時には六角形や三角形のものもあります。
それらを別の方向から見ると線に見えます。それはな~んだ?」

「?」

「追加のヒントです。丸や六角形や三角形の真ん中には丸が見えます。真ん中の色は時々
違います。」

「もうひとつ追加のヒントです。それは道具です。書いたり、描いたりすることに使います」

 

・・・答えは「鉛筆」でした(でも、鉛筆以外にも答えはあるかも)。

鉛筆のように小さく単純なものでも、近すぎたり、遠すぎたり、見る角度が一方向からだったり、情報が少ないとそれとわからない時があります。

物事の見え方、感じ方、捉え方の可変性と不確かさ…。
その面白さ、不思議さを感じるこの頃です。