いまここ階段

カウンセラーの内藤です。

昔…とはいっても、ほんの少~し昔のお話です。
ある小さな山の上に古い庵がありました。
気持ちの良い小さな住いですが、ひとつだけ難点がありました。
階段150段を徒歩で上らないとそこには着けないのです。
庵の住人は歳をとると、階段の上り下りが難しくなり、庵を愛し大事にしてくれる人へと譲って山を下りていきました。

時が流れ、庵にまた新しい住人がやってきました。
まちの暮らしに少し疲れて、流れついた中年の女性です。

見渡す限り、空と山や水辺に囲まれた見晴らし、自然豊かな環境が気に入った彼女は、「階段はきついけれど、しょうがない。こんな別世界を味わえるならここに棲もう」と思いました。

でも、暮らし始めると、やはり階段は難物でした。特にのぼりは永遠に終わらないかとも思われました。仕事の帰り、どんなに疲れていても、休日の買い出しやゴミ出しでさえ、家に帰りつく為には必ず150段をのぼらなくてはならないのです。
忘れ物をしたら二倍です。
荷物が重くても大変です。
階段を見上げるとくらくらと気が遠くなる感じがしました。

そんな日々の中で、彼女はふと、禅宗のお坊さんから聞いた「而今」という言葉を思い出しました。道元禅師の唱えた「而今」とは、今風に言うなら「いま、ここ」に「全集中」する在り方ということになるのでしょうか。

それから、その教えのように、過去でも先々でもなく「いま、ここ」だけに意識を向け、全身で「いま、ここ」を味わい、ただ、いまの一歩を出すということを続けようと試し始めました。
階段の先を見上げるのは、やめました。

何年か経ち、気が付くと、階段が苦ではなくなっていました。長い階段も、いま、ここの一歩を繰り返していけば、必ず終わり、我が家に帰り着くことを身体が覚えたのでしょうか。家の扉が見えるところまでくると我が家に、「ただいま」とつぶやくようになりました。

のぼりは帰路ゆえ、往路と違って急ぎません。足元や脇の動植物を見るようになりました。季節がうつろう中で、芽を出したり、花をつけたり、実を結ぶ草木や、虫や鳥などの色々な生き物の変化を楽しむようになりました。

そんな日々を続ける中で、家に帰りつく為の必要悪だった階段の一歩一歩が、日々新しい、時には愛おしい生活の一部になり、ない方がよいだけの難物ではなくなっていったのです。

もちろん、そんなことを、とても感じていられない日もあります。

10年近く経って、かつては見上げるとのぼれなかった150段の階段を見上げても心は全く揺れなくなっていました。

彼女――。即ち、私はこの階段を、「いまここ階段」と呼んでいます。