消えた梅の木とトラウマのち?

カウンセラーの内藤です。

寒中に咲き始める丈高い白梅が、家にありました。
その梅の実で毎年、梅干しを作ります。

ある年の収穫

今年はいまだかつてない豊作となりそうで、楽しみに黄熟を待っていました。

ところがある日、梅の木のあるはずの場所から木が消えていました。

目を疑い、何が起きているのかわからず、近寄ってよく見ると、根元に近いところからぐしゃっと複雑骨折のように折れていました。
たわわな実を付けたまま…。

何とか木を助けたくて庭師さんに電話しましたが、留守電…。
呆然としたまま、手が梅の実をもいでいました。
こんなに実をつけていては重いよね、体力が奪われるよね、ごめんね…とぶつぶつ。

しばらくして庭師さんから折り返しがあり、
「梅の木は皮の一部でもつながっていると生きられることがある」とのこと。
そして、明日は難しいけれど、明後日寄れるとのことで、
「実は全部とってしまってください」と言われました(既にほぼ取った後でした)。

その後、庭師さんの診察?の結果、木自体の命はつながる可能性が出てきました。

延命?治療?には、ふたつの選択肢がありました。

ひとつは、折れたところの下で切る事です。
3メートルはあった木が数十センチメートルになります。

もうひとつは、折れた幹を斜めに起こして下に太い添え木(木にとっては松葉づえのようなもの)を噛ませる方法です。それなら長めに幹を残すこともできるだろうとのことでした。

しばし迷いましたが、添え木を使わず、すっぱり切る事を選びました。
もし、私たちがいなくなった後、ここに誰も住まない時が続いたりして、添え木が腐り朽ちたなら、梅の木は自分を支えられず折れるでしょう。
その時、今回のように手当をする人はいないかもしれません。
足元で切ることで大きくなるまで時間はかかったとしても、添え木なく生きていられるようにした方が良いと思いました。

幸い、折れたところの少し下に何本か枝が出ていました。地中に残る根や短く残した大元の健康な幹の上、若枝が育っていけば時間はかかったとしても木は再生するでしょう。
添え木に頼ることなく、やがてまた新しい自分の幹や枝を自由に空に伸ばしていければよいな…と願います。

 


当然、しばらくの間、実はほとんど見込めないでしょうし、以前(上記)とは違う姿でしょうけれど。

その後、採った実を測ると、例年の三倍ほどの量がありました。
世話が行き届かないのに、こんなに実をつけてくれていたとは。
忙しさにかまけて折れるほど幹がもろくなっている事に、気付きませんでした。
黄熟する前のまだ小さな青梅も沢山ありましたが、一粒も無駄にしたくなくて、漬けました。

梅の木が、命をとりとめ生きていける目途がついて安堵し、ただただ、うれしかったです。

…で、その梅と「トラウマのち?」って何よ?…ですね。
トラウマ(Trauma)は、現在では、心の深い傷のイメージですが、元々、身体的な外傷を指す言葉です。
そんな命に関わるような出来事(トラウマ)により外傷被害や深い喪失を体験した人が、何等かの回復(恢復)を経て、ある種の成長のようなものを遂げることがあるといわれます。それをPTG(Post Traumatic Growthの略で、「心的外傷後成長」と訳されます)と言います。

消えるかに見えた梅の木の命が辛うじてつながり、多くを失いながら生き延び、また空に枝を伸ばしていくだろう姿をイメージした時、これってPTGっぽいかも…と感じたのでした。
トラウマのち晴れ(ピカーン!)というほど、単純なものではないでしょうけれども。

PTG云々については、またいずれどこかで続きを書かせていただく予定…(?)です。