コミュニケーションという宿題

こんにちは。
カウンセラーの内藤です。

人間はコミュニケーションの手段として言語を使いますが、そのやりとりは、非言語情報とともに行われます。

では、言語、非言語の比率はどれ位だと思いますか?

研究によりますが、「言語」によるやりとりは、コミュニケーション全体の1割に過ぎず、残りの9割は言葉以外の、表情、姿勢、しぐさ、声、間、服装などの様々な「非言語」情報でなされているという説もあります(*1)。

例えば、職場や家庭で長めのフィードバック(家庭なら説教?ディスカッション?)の後、「わかった?」「はい。わかりました」というやりとりがあったとします。
「わかりました」と言うひとの視線の先が宙にあり、身体はドアに向かっている時、言葉以外のものがあることは両者に(おそらく)共有されていることでしょう。いらだちや不本意、疑念や不安等が互いの胸の内に抑えられ、その場に至るまでの経緯や互いの関係性が、短い言葉の下に蓄積しているかもしれません。

言語と非言語のズレがなく、一致するほど、コミュニケーションは明快になります。
共感や合意のみならず、相違や決裂もはっきりする可能性があるため、衝突しないよう、私たちは言語での明確なやりとりに慎重になったり、あうんの呼吸で回避したりします。

そんなあいまいなコミュニケーションによって維持される日常がある一方で、言語・非言語の不一致やズレが致命的な事態につながることがあります。
かつて航空業界の危機管理のプロジェクトに関わらせていただいた際、僅か数分のやりとりと判断と行動が、乗客乗員の生死を分ける現場の重さを垣間見ました。
異なる立場や意見を、相違と対立構造に止めず、全てをリソースとして活用し協力して事態を乗り切らないことには皆が命を失います。こうした一刻の猶予もない危機対応の成否は、平時の関係性やコミュニケーションの在り方に関わります。

コミュニケーション…。人生からそれを切り離すことはほぼ不可能。…であるなら、一生、この奥深い宿題を抱えて過ごすことになるのでしょうか(頭がちょっと痛い…)。

2021年6月現在、緊急事態宣言の中で、五輪開催予定日が近づき、「安全・安心」という言葉が繰り返され、溢れています。その方により、おかれている状況も感じられているものも様々とはいえ、普段と異なる気持ちを抱える方も少なからずいらっしゃいます。

そんな中で、できることは…と散々考え、結局、自分の持ち場(カウンセリングセッションの「いまここ」)で、安全・安心が崩れないよう、丁寧に大切に(言語・非言語の一致や自己一致を意識し)、安全・安心な場を支えるという、初心に帰っています。

また、それぞれの現場で安全・安心を守り支えていらっしゃる方々に改めて思いをいたすこの頃です。

*1)代表的なところで『メラビアンの法則』。ただし、研究者によって言語・非言語の比率は異なる。